教育とは教えること、教わることと考える人が多いと思うが、本質的な意味は少し違う。画一的な教育の副作用か。穴埋め問題、選択枝問題に代表されるテストが勉強だと思っている人もいるのではないだろうか。記述問題になるととたんに解答用紙は空欄になってしまう。問題の本質をとらえる理解力と解答を考えるだけの語彙力がなく思考力がない、そして表現力もない。勉強がクイズのようになってしまう。マルでなければバツ。選択肢1でなければ選択肢2。間違うことはかまわないのだが、なぜそうなるかの検討はない。
もっと極端になると問題文を読むことなく選択肢だけをにらんで答えを出す。そのような人を「恐怖の選択肢人間」と呼んでいる。日本の教育はこのような人を大量生産しているのか。様々なことを「入力すること」も必要だが、もっと重要なことは「引き出すこと」である。
様々な状況がこのような結果を招いている。現代はスピード社会。確かに様々な機械やコンピュータを使い、すぐに結果が出る社会は人の生活環境を劇的に便利にした。しかし、すぐに結果が求められる社会であり、すぐに結果が出せなければまるで人間失格とでも言う遊楽印を押されることになる。そう言う意味で大器晩成型は不利だ。誰もが待ってくれない。
指導者も考えさせられる。「魚釣り」に例えると魚をそのまま与えてしまっては今は良くても自立出来ない。本当に必要なことは、魚を与えることではなく、釣り方を教えることである。そしてさらには、みずから研究し、釣り名人にすることである。
教育とは、単純に答えを教えることではなく、思考方法や考え続ける忍耐力の必要性を教える。
究極の指導法は、「教えないこと」。大切なことは自分で気づかせて、自分で考えさせて、自分で進んでいかせること。
植物に例えると、良く伸びるようにと化学肥料をやる。確かに伸びるが非常に弱い。大切なことは、周りの環境を整え、見守ってあげること、そして声をかけ、励ますこと。
そうすれば、嵐が来ても倒れない立派なものに成長するであろう。









![Powered by 269g[ブログ・ジー]](http://269g.jp/img/269g.gif)