2008年02月25日

木鶏

先日、ドラマ金八先生を見ていると、相撲少年の話だったのですが、そこで登場してきたのが横綱双葉山の話。
横綱双葉山定次は 1939年70連勝をかけた試合で、残念ながら安藝ノ海に敗れ、記録は69連勝で止まってしまう。そのとき双葉山は体調が最悪で体重が激減し、強行出場した。彼は、黒星となり、69連勝を止められたにもかかわらず、普段通り一礼をし、全く表情を変えずに花道を引き揚げたという。「あの男は勝っても負けても全く変わらない」と言われている。

その日の夜、師と仰ぐ安岡正篤に「ワレイマダモッケイタリエズ(われ未だ木鶏たりえず)」と打電したと言われている。

さて、ここに出てきた木鶏とは荘子に納められている故事に出てくる言葉でこんな話である。
「紀悄子という男が王のために闘鶏を育てていた。闘鶏を訓練し始めて十日の後、王が紀悄子にもう大丈夫かと、きいた。 紀悄子は、まだ鶏は虚勢をはっているからだめだ、という。また十日してきくと、まだ相手の動きに心を動かすところがあるからだめだ、という。さらに十日たってきくと、もうよろしいでしょう、と答えた。そのときの闘鶏のようすが、ちょうど木鶏のようであった。これを見てはどんな相手でもこれと戦う気力を失い、逃げ出してしまった、というのである。」
「見たところ、木でつくった鶏のようだ。敵意を持たないものに対しては、これに反抗する敵はない。無心で他に対することが、万事を処理し、困難に打ち勝つ最上の方法であるというたとえ。」

本当の強さとは、何事にも動じない平常心でいられるということであろう。
人の道もまた、同じ。木鶏のごとく生きる。
これを目標としてもなかなか近づくのは難しい。
われ未だ木鶏たりえず。
成功しても失敗しても動ぜず、常に謙虚な姿勢でいることこそ本来の人に近づくということだ。
(参考 ウィキペディア / 中国古典名言辞典 講談社 )
ニックネーム uzak at 19:03| Comment(0) | 人生

2008年02月10日

人と信

子曰わく、人にして信なくんば、其の可なるを知らざるなり。大車なく、小車缶気・鵑弌・兇豌燭魄覆毒靴鮃圓蕕鵑筺・箆生譟^拈・萋鵝ヒ

師が言われた。「人であって信がなければ、どうにもしようがない。それは牛に引かせる荷車に轅のはしの横木がなく、馬に引かせる車に轅のはしのくびき止めがないようなもので、いったいどうして車を進めることができようか。」という意味である。(「論語」一日一言 致知出版社)

最近の企業の不祥事等をみていると、その対応の仕方でその企業の品格がわかってくる。日が経つにつれ、また同様のものが発覚したり、ころころ言い分が変わったりする企業に憤りと幻滅を感じる。一方で、すぐに自分の企業の不手際を認め、テレビ新聞、チラシ、ハガキによる陳謝と部品の交換等に何度も長期間にわたってその対応をしている企業に潔さと信頼を感じる。この差はいったいどこから来るものなのか。
人はいい状態の時その人の一部が現れるが、人は追い詰められてどん底に来たとき、その人の本性が現れる。

大事なものがなければ、その物体の存在価値はない。企業でも、人でも同様である。それが信ということになるだろう。
自分の利だけを考えるのではなく、相手の立場になってものを考えられること。間違った場合は素直に自分の非を認め、誠心誠意の行動をする。むしろ、そのような厳しい状況になって、初めてその人や企業の本質がわかってくる。

人が人であるためには、どれだけ他の人から信頼され、他の人のために行動し、社会に貢献しているかで決まる。

信を前提にした社会に全世界がなることを切に望む。
ニックネーム uzak at 15:17| Comment(0) | 人生