「個性の尊重」、「自由主義」、「自主性に任せる」など、「無理にいやなことはさせないほうがよい」、「好きなことだけやればよい」という考え方が多くなっていると思う。
確かに、「個性の尊重」、「自主性に任せる」というと格好がよく聞こえる。
しかし、個性とは何なのだろうか。「好き勝手に行動していい」と言うことではない。
「じっとしているのはいやだから歩き回る」、「つまらないから友達とおしゃべりする」「授業や電車バスの中、食事中でも平気でケータイをいじっている」、「考えるのは嫌いだから
勉強しない」、「早く乗りたいから列を無視する」、「ウザイから殴る」。
これらのことが「個性」なのだろうか。これらはいわゆる「ジコチュウ」で、「個性」などと呼べるものではなく自分勝手でわがままな「自己中心的行動」でしかない。
個性とは最低限のことが出来た上で、自分独自のものを出していくこと。規則を守れず、最低限のことができない状態で好き勝手なことをすることが個性とは呼べないだろう。
「自分さえ良ければ他はどうでも良い」、「人に迷惑をかけていないから何をやってもいい」、「今が良ければよい、先のことは何も考えていない」そんな人間が多くなった。
社会は思考力のない自己中な
子ども達、いや大人達を量産しているのではないだろうか。
これでは、世の中が良くなるわけがない。
最低限の教養を学ばなければ、思考するための言語や事柄がない。
最低限の教養を学ばなければ、人を思いやる心も育たない。
中学3年くらいまでの勉強は義務教育ということもあるがどの教科も不必要なものは一つもないと思っている。最低限のことだ。その上でさらに自分の興味のあることを深めていくべきであろう。
ノーベル化学賞を初めて受賞した
福井謙一先生の『学問の創造』(佼成出版社)には次のように書かれている。
「学んだことはいつ、どんな形で役に立つか、わかったものではない。学問を植物にたとえれば、個々の学問の地下茎は思わぬところでつながり合っているものである。(中略)
大学で教職についていたとき、私は巣立っていく教え子達に、このような話をして広く学ぶことの意義を話すことにしていた。自分が進もうとしている道には関係なさそうに見える学問、否、もっと極端に、逆の方向の学問を一生懸命勉強することを勧めることにしていた。自分のやりたい学問との距離のある学問であればあるほど、後になって創造的な仕事をする上で重要な意味を持ってくるからである。」
直後に達成しなければならない
目標がある場合などは別にして、様々なことを学ぶのに無駄なことはないということだ。
人生においても様々な出逢いや出来事に自分にとって不必要なことはないということだ。
これを良く理解した上で生きることが必要である。
(参考 『数学脳をつくる8つの方法』岡部恒治 サンマーク出版)